2018年08月08日

英国紅茶なんて

3日目の午前、バッキンガム宮殿前からバスに戻る途中で、スリ男に私のリュックの中をさぐられた。
スリ男には気の毒なことをした。リュックの真ん中には除菌、ウエット、普通の各ティッシュにハンドタオル、化粧道具等で金目のものなし。おまけに海外はトイレにウオッシュレットがないので、私は赤ん坊用のお尻ふき紙と携帯ウオッシュレットまで持って歩く。
携帯ウオッシュは未使用だが、“なに、このリュックの中身は”とスリ男は驚いただろうと、アケミと大笑い。
それにしても異常接近してきた男がスリなのにはガッカリ虛擬辦公室。「奥様、お茶でも如何ですか」なんて誘う英国紳士はいないのか。

午前11時30分。大英博物館へ。

正面玄関からすぐの“グレートコート”。
ガラスの大屋根を頂く明るい大空間。インフォメーションやショップ、トイレ等の機能も集約され、各展示室へのアクセスも便利な場所。

私は見学せずにここで仲間を待つことに。ツアーの見学時間は1時間で、ロゼッタストーンとエジプトの出土品を見るだけなのだ。以前見た時に、いくらお墓好きの私でも服務式住宅、墓をあばいて見せものにすることが不快だった。
グレートコートの1時間も、多くの外人を見ているだけで結構楽しい。

突然、音楽が鳴りだしたと思ったら、こんなパフォーマンスも。
日本人の高校生グループもいる。聞くと語学研修で来たとか。

コーヒーを買って驚いた。なんと紙コップの絵が「北斎」。
売店も日本のお土産がいっぱい。世界各地での北斎人気は知ってはいたがこれ程とは。

大英博物館を見終わると、さあランチの時間。自由行動だ。

添乗員さんに同行する。
彼女と行けば美味しい店に行くに違いないと踏んだ。ところが行った店は博物館前の“スターバックス”!
とんだ目論見違い。

これが今日のランチ、トホホ……。
やけくそで←盗撮。

ツアーのバスで博物館前からピカデリーサーカスへ。

ピカデリーサーカスの中心にあるエロスの像。ロンドンのほぼ中央に位置し韓國護膚品、有名な商店や劇場のあるストリートがこの広場を中心に広がっている。

この日は買い物をすることに決めていたので、周辺を歩く。

アケミは紅茶を買いたいと言う。英国紅茶なんて日本でいくらでも売っていると言うと、イギリスで買うから値打ちがあるねん。ナルホド。

それなら私にお任せ。

前に来た時はこの近くのホテルだったので、この辺りは1人でよく歩いた。紅茶の有名店も知ってるよ。

ドンピシャリ、紅茶専門店の前に来た。

街はバーゲンセールの真最中。見たかったけどお茶を飲んでいたら4時になってしまったので、二階建てバスでホテルに帰ることに。

バスの番号と降りる所の名前は添乗員から聞いている。
ところがバス停のアナウンスがない。窓際に座ったアケミにバス停の名前に注意して、と言うと書いてないという。慌てた。側にいた若い英国紳士に尋ねると、近くに来たら教えてあげると言うのでホッとする。約束通り、私の肩をトントンと叩いて、次が○○だよ、と教えてくれた。
帰ってから旅行社の案内を読むと「路線バスは、次のバス停のアナウンスがないので乗りこなすのは大変難しいです」とあった。先に言ってよ!

さて夕食の時間、今度こそは美味しい物を食べるぞと闘志を燃やしていると、添乗員さんからお誘いの電話あり。夫婦と母娘のツアーの仲間も一緒だ。
連れて行かれたのは、ホテルから歩いて10分ほどの大きな商店街にあるパブレストラン。

メニューから選んで私が食べたのはこれ。ミートラザニア。
後はジンジャーエールのみ。

下は仲間の頼んだ料理。味は悪くなかったけど。
ああ、今日もハズレだったと、9時近くのちょっと暗くなり始めた街を意気消沈しながら帰る。

ホテルの側に来た。
ガックーン、ドタッ!
歩道が終わっているのに気付かず、段差でひっくり返った私である。

矢印がこけた場所。メッチャ痛かったけど、骨折はしていないみたい!

あれから2週間、打撲と捻挫の痛みはまだ残っている。  


Posted by cathyhua  at 13:00Comments(0)

2018年08月08日

階段で行き交うこと



朝よく晴れていたそれは、いまはもう雲に覆われている。
雨さえ降らなきゃそれでいいが。

フライブルグのInfoは休みだった。


ここには116mの高さの大聖堂がある。


地球の歩き方によると、

「キリスト教世界で最も美しい塔をもつ大聖堂」

どれだけ期待を煽るんだ。


駅から10分くらい歩くとそれはあった。


しかし・・・・

今日はやっぱりついてない。


キリスト教世界で最も美しい塔が工事中


しかし、塔に登ることは可能みたいだ。

塔の上まではらせん階段で上がれる。

とにかく長い・・・


パリの凱旋門もらせん階段で上ったけど、それより長い。

なにより厄介なのは、ここは上りも下りの一つの狭い階段で行き交うこと。

一番上まで上がった頃には息がきれてた。


ここからはフライブルグの街全体を見渡すことができる。

天気が良ければもっと素晴らしい景色だっただろう。

そして、もう一つ貴重なものが見れた。


教会の鐘


寺みたいに人が鐘を鳴らすわけではないから、からくりになっている。

写真ではうまくとれなかったが、とても興味深いつくりだ。


さらに、この鐘の部屋にいるとき鐘が鳴った。

鼓膜が破れるかとおもうほど大きい音だった。

街中に鳴り響くわけだから相当な音だ。


でも、鐘の音って嫌な感じじゃない。


心地よかった。


それにしてもドイツの冬(まだ秋だけど、東京なら冬並の寒さ)は、なかなか太陽が顔をみせてくれない。


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Posted by cathyhua  at 12:56Comments(0)

2018年06月21日

様子を見ながら

またまたご無沙汰しました。

頑張って働いています。


6月13日の散歩。天気が良いと気持ちが良いですが、暑いと凛太郎の歩行距離が短くなります。
暑い日は午後5時頃の出発になっています。御老体ですので、様子を見ながら歩いてもらっています。

親ばか炸裂ですが、先日購入したベッドで、2匹が寝ている姿を見ては、勝手に顔がほころぶ飼い主です。


これは車の助手席用に買ったベッドですが去黑眼圈、これも気に入ってくれています。
この日は寒かったので、上からひざ掛けをかぶせました。


ハクも、少し狭いけれど、それなりに使ってくれています。
それがいつのまにか…。


凛太郎が乗っ取りました。尻会いの中で、仲良くおやすみ。
スクエアベッド2つにした方が良かったかな~と。


でも、ハクには狭そうだけれど、まっいいか~とラウンド型に収まってくれました。

大阪が震源の地震、我が家にも響きました。緊急地震速報が出て「どこ?」と見ようとしたら揺れ始めました。
ちょうど、台所でお湯を沸かしていたのですが(電気です)、「どんだけくる?(揺れが)」と、とりあえず、シンクの縁につかまって足を踏ん張りました。

多分数秒の揺れでしたが、横揺れでした。
ハクは、すぐに飼い主の傍にやってきました通渠佬。多分怖かったのだと思います。
凛太郎は、寝ていました。

あの地震の日から、妙に甘えるようになったハクで、抱っこ所望のアピールを激しくするようになりました。

今夜もこんな時間だと言うのに、まだ起きています。
最近、頑張って仕事をしているので抗衰老、スキンシップが足らないかも。

ではまた
見に来ていただいてありがとうございました。  


Posted by cathyhua  at 12:57Comments(0)

2018年06月21日

用意しておくと

今年、良い香料ができたのか(いきなり農作物の生産量は増えるものではない)ミント風味のお菓子がたくさん出ておりますよね~(*´艸`*)お菓子やガムはもちろん、ケーキの上に乗っかっているお飾りのミントの葉っぱまで食べつくす私としては、今年のミント風味流行は本当にありがたい(≧∇≦)/特にこれから暑くなってゆく夏場は涼し気な味にも癒やされそうです(*^▽^*)
しかし・・・私の周辺、特に男性でミント味苦手な人が多いんですよ~(。>_<。)
まず旦那があまりミント味好きじゃないみたいで・・・何種類かガムを用意しておくと、ミント味には手を出さない(^_^;)更にバイトをしていたコンビニのオーナーがまたミント(というかチョコミント)が大きらいな人でして/(^o^)\
本部から『前面に押し出して売るように』とお達しがあったにもかかわらず、『見るのも嫌なくらいキライ』という理由から入荷をやめようとしておりましたwwwなんか『歯磨き粉とチョコを同時に食べているよう』とのこと。
しかしミント好きとしてはそれは絶対阻止しなければならない案件(๑•̀ㅁ•́๑)✧お店に来て『どのアイスを食べようか』と迷っている女子高生に対し『チョコミント美味しいよ~❤うちのオーナー、入荷をやめようとしているから食べるなら今のうちかも』とけしかけました( ̄ー ̄)ニヤリ
となると噂好き&新しもの好きの女子高生は食いついてくれるのですよ♪けしかけた翌日からチョコミントアイスの売上は急激に伸び、オーナーも入荷をやめるわけにはいかなくなって無事その年の夏は私もチョコミントアイスにありつくことができました(≧∇≦)/
なお、今年出ているミントものはまだ研究中なのですが、今の所ジャイアントコーンの『大人のチョコミント』がイチオシですかねぇ(*´ω`*)更に新作にもチャレンジする予定です(๑•̀ㅁ•́๑)✧

次回まかない処は6/28、夏らしいネタを探します♪  


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2018年05月10日

販売される時期

先週は新潟限定のお煎餅『サラダホープ』について取り上げようと思っていたのですが、自分で作ったほうじ茶が思いの外うまく出来たのでそちらを紹介させていただきます(*^_^*)

5月の初めと言えば新茶の季節、美味しいお茶がどんどん販売される時期だと言うのに、我が家では緑茶があまりに余ってしまっております/(^o^)\何故なら私が緑茶を苦手としているから(^_^;)緑茶の苦味&カフェインがダメなのですよ~(>_<)
なので常備しているのは麦茶で、それに引きづられるように旦那も緑茶派から麦茶派に・・・胃腸には麦茶のほうが優しいですしねぇ。あれは赤ちゃんでも飲めますし(-_-;)
しかしそうなると戴き物の緑茶が余るばかり・・・新潟の実家もあまり緑茶が得意ではないらしく、我が家に横流し(おいっ)されるのです(-_-;)そうこうしている内に賞味期限は過ぎ、処分することになるのですが毎年のことだとあまりにも勿体無い(>_<)
ということで今年は賞味期限がきれてしまった緑茶をほうじ茶にすることにチャレンジしてみました(๑•̀ㅂ•́)و✧

本来ほうじ茶にするには『焙烙』という茶器で一回分ずつ焙じるのですが、流石に面倒くさいので(おいっ)フライパンで緑茶2パックまとめて焙じることに/(^o^)\
時間はかかりましたが意外とどうにかなるもので、焙じ方はやや少なめながら予想以上に美味しくほうじ茶が出来上がりました♪ほうじ茶にすると少しですがカフェインが減るんですよね~。更に苦味も減り、香ばしさがUPするので飲みやすく(๑´ڡ`๑)これを水出して飲んでおります♪
しかし賞味期限切れの緑茶はまだまだ沢山あるのですよ・・・今回作った分が無くなったら、次回は1パックor半パックずつ焙じていこうかと。しかしまだ焙烙を購入して一回分ずつ焙じていこうという余裕というか根性はありません/(^o^)\
(まとめて作るからなんとか出来る・・・因みに『焙烙』という茶器を知ったのは『美味しんぼ』でした。山岡さんのお母さんが生前、焙烙が割れてしまったので和紙?でお茶を焙じてほうじ茶を作ったというシーンがあったんですよ、確か・・・本当にお茶は道具から製造まで奥が深いです(  


Posted by cathyhua  at 17:43Comments(0)

2018年05月10日

書かれているこ

ギリシャ人の物語なのでペロポネソス戦争でデロス同盟が崩壊したところで終わりかと勝手に思っていたけれど、マケドニアもギリシャ語圏でしたね。

遠征にギリシャ人も連れて行きましたから当然物語に入るのですが、アレクサンドロスまで書いてくれるとは嬉しい誤算。

もちろんアレクサンドロスについては興味があって韓國半永久化妝、別に本も読んだし、コリン・ファレル演ずる映画も観ました。

塩野女史の「・・・物語」シリーズは歴史書として認めない専門家が多いようですが、彼女は「歴史エッセイ」と認識しているようですね。

あくまでも物語なんだと。

歴史の専門家に負けないくらい造詣が深いのですが、読み物として実に面白い。

この450ページあまりの本も一気に読んでしまいました。

彼女の書く歴史は特徴があってあくまでも人間に焦点を絞って書かれていることです。(だから「・・・物語」なのですが。)

彼女は哲学出身なので、ソクラテスに強い思い內痔入れがあるはずなのですが、哲学にはあまり触れず、あくまでソクラテスという人間性に絞って書いている。

なのに、アレクサンドロスについて必ず触れられる「ゲイ」と「マザコン」については一言も書いていない。

(ちなみに、映画はゲイの部分を強調したから後味の悪いものとなってしまった。)

彼の人間性を描くのに邪魔になると判断しているからでしょう。

これに限らず取捨選択が実に小気味良く、それが彼女の書く歴史の人気の理由となっています。

他の特徴として、戦闘を描くのが実に上手い。

アレクサンドロスの生涯は戦闘に次ぐ戦闘に終始したけれど童顏針、一つ一つを丁寧に描いている。(コリン・ファレルは赤色羽飾りを付けていたけれど、実際は白色だったのですね。)

戦闘ほど人間性が強く現れるものはないからでしょう。

塩野女史もついに今年で81歳?

本作をもって「歴史エッセイ」から卒業するらしいけれど、まだまだ書き続けて欲しいとファンなら誰でも願うでしょう。(^^)/

  


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2018年03月02日

辞が零記号の場合

次に、形容詞の連用形に結合した「あり」がある。
この冬は暖かり(く・あり)き
 この例においては、すでに零記号の陳述が加わった「暖かく」に「あり」が結合したもので、その形式は「学生で」に「あり」が結合したものと同じである。
*山田孝雄氏はこの「あり」を形容存在詞と命名し(「日本文法学概論」)、「日本文法論」で以下の説明を与えられた。
〈第一種の場合(存在概念を表す場合)と同じく事物に対してのある種の存在的意識をあらはすものなれど、第一種のものは事物そのものの存在をあらはし中一派位、第二種のもの(「暖かり」の類)は属性そのものが本体たる事物その者の上に存することをあらはすなり〉
 この「属性そのものが本体たる事物その者の上に存する」ということは、「この冬は暖かりき」という表現をそのまま理解したところからは出てこない。この文を「暖かさはこの冬にありき」とでもした場合にいえることだが、これは言語を離れた説明であり肯くことはできない。この例から、その説明をそのまま受け取った場合でも、二通りの理解が成立する。
一 「あり」を存在の概念の表現とし、「暖く」をその限定とし、「暖かり」を「この冬」の述語と考え、この冬はこれこれの有様で存在するという意味に解する。その時「暖かりき」は一つの詞と考えられる。
二 「あり」を陳述とし、「この冬は暖かい」という判断にさらに判断が重加したものと解する。口語の「この冬は暖かいです」の「です」、「暖こうございます」の「ございます」と同じように考えようとするのである。
 その何れが正しいかはしばらく措くとして空氣淨化器、問題は「あり」をどのように処理するかということである。一の「あり」を存在と考える立場からは、「暖かり」を一語とし、詞と考えてこれを形容動詞とする立場が生まれてくる。二の「あり」を陳述と考える立場からは、「あり」を「暖く」から切り離して、次のように理解する立場が生まれてくる。
 この冬は(主語) 暖く(述語) あり・き
 この理解に従えば、「ありき」は、この冬は暖い・よ(か・ね・らしい)における辞「よ」「か」「ね」「らしい」と全く同列に考えられることになり、さらに進んで、
 本を読みき
水は流れき
 における「き」と同じように考えられることになる。形容詞連用形に「き」が続く場合、その中間に介在する「あり」は、「暖い」で陳述が完成しているにもかかわらず、さらに「暖かいです」という場合の「です」に相当するものと考えられる。中間に「あり」を必要とすることは、被接続語の性質によるものであって、「き」が他の辞に続く場合にも起こる現象である。
 花咲き(に)き
 みぐしおろし給ひ(て)き
 のように「に」「て」にただちに続く場合と
 花咲くべかり(べく・あり)き
 みぐしおろし給はざり(ず・あり)き
 のように、その中間に「あり」を必要とする場合とがある脫毛優惠。この「あり」が存在概念を
表すものとは考えられない。
 形容詞連用形接続の「あり」に二通りの理解が成立するのと同様に、「ずーありーき」の「あり」についても、その取り扱い方は従来から問題であった。「暖かり」を一語と見て、「あり」をその語尾のように見る立場からは、「ざり」を一語と見、「あり」をその活用と見る。
 橋本進吉氏は、このような「あり」を補助用言といわれている。(「国語と国文学」)
氏の考えに従えば、補助用言「あり」の付いたものは一語となり、その活用は補助活用といわれる。氏は「ず」について、次のように説明している。
〈「ず」は(a)補助活用はないかというに、これと同じ意味の助動詞「ざり」があって、ラ変と同様に活用し、「ず」にない命令形をこれによって補っている(「思はざれ」「願はざれ」の類)。これはその起源において「ず」の連用形「ず」に動詞「あり」が付いて合体したもので、形容詞の連用形に「あり」が合してできた、形容詞の補助活用と趣をおなじうする〉(前掲論文)
 この論旨においては、補助用言が詞に属するか、辞に属するか、明らかにされていないが、形容動詞の語尾を形容詞の補助活用とするところは詞とも見られ、「ず」の補助活用として「ざり」を助動詞とするところは辞とも考えられている。要するに、「ざりき」のような場合は「ざりーき」とし、「べからず」のような場合には「べからーず」として取り扱い、すべて「あり」は上の語に接続させて考えられているのである。「あり」の一用法を辞と認める私の立場においては「ずーありーき」「べくーあらーず」というようにすべて辞の結合と考える。取り扱い方によっては、「ありき」「あらず」を一体と見て、それぞれ「き」「ず」の接続による変容とすることもできる。あたかも、敬語的陳述が、
 咲く・       (は記号の陳述)
咲き・ます   「ます」は零記号の変容
美しう・ございます 「ございます」は零記号の変容
 のように、零記号より「ます」「ございます」と変容する場合と同じように考えられる。もし「あり」を詞の補助活用と考えるならば、上の「ございます」も補助活用として考えなければならない。
 「あり」の一用法を辞と見る考え方は、次のような事実にも適用できる。
 あり・つる文
 あり・し面影
あら・ず
と・ある・家
 上の場合は、具体的概念を表す詞を省略して、その陳述のみを「あり」で表現したのである。例えば、問・汝は行くか→答・あらず のように「行く」という詞を省略し、否定的陳述「ず」の代わりに「あらず」といったのと同じである。上の諸例は、いわば辞の独立的用法というべきものである。辞は一般には独立して用いられないが、詞辞の結合において、しばしば辞が零記号で表されるように、ある場合には詞が零記号で表されることを認めてよいと思う。
 火事・か・・・・・・・→火事? 火事・ 辞が零記号の場合
天気・だが・・・・・・→だが □・だが 詞が零記号の場合
 詞の零記号になる場合は、それが省略されても自明のこととして理解されるような場合である。
 雪が降っている。だが暖かい。
 風は吹かない。けれども花が散る。
 「が」「だから」「だのに」「だって」「で」「でも」「では」「ですから」「でしたら」等は独立的に詞が省略されて用いられる。ここで注意すべきことは「降っている」というような零記号の陳述を受けてこれを繰り返すとき、「だが」という形で受けることであり、これによって見れば、「だ」と零記号の陳述は同一のものであることが知られる。否定的陳述が「あらず」となる場合も、「あら」は同様に零記号の陳述と同価値と見ることができるのである。

【感想】
 ここでは、形容詞の連用形に結合した「あり」について説明されている。「この冬は暖かりき」という例文をとりあげ、著者は「暖かりき」を「暖かく・あり・き」のように分析し、「あり」「き」はいずれも陳述を表す辞であると考える立場だが、一方、「あり」を存在を表す詞と考え、「暖かり」を一語(形容動詞)とする立場もあることを紹介している。どちらが正しいか、著者は結論を出していないが、さらに進んで、(著者の考えでは)動詞連用形に結合する「き」(本を読みき、水は流れき)と同様であり、また「花咲くべかりき」(べく・あり・き)「みぐしおろし給はざりき」(ず・あり・き)のように、中間に「あり」を必要とする場合があることを紹介している。この場合の「あり」が存在概念を表すものとは考えられない、という説明には、なるほどと感じる説得力があった。
 形容詞連用形接続の「あり」に二通りの理解が成立するのと同様に「ず・あり・き」の「あり」についても、従来から問題があったということである。橋本進吉氏は、そのような「あり」を補助用言といい、〈「ず」の連用形「ず」に動詞「あり」が合してできた、形容詞の補助活用と趣を同じうする〉と説明しているが、その補助用言が詞なのか、辞なのかは明らかにしていない。要するに、「ざりき」のような場合には「ざりーき」とし、「べからず」のような場合には「べからーず」として取り扱い、すべて「あり」を上の語に接続させて考えられている、ということである。これに対して著者は、「あり」を辞として認め、「ずーありーき」「べくーあらーず」というように、すべて辞の結合と考える。取り扱い方によっては「ありき」「あらず」を一体と見て、それぞれ「き」「ず」の接続による変容ともすることができる、とも述べている。それは、(敬語的陳述において)「咲く・」が「咲き・ます」「美しう・ございます」のように零記号のが「ます」「ございます」に変容する場合と同じようにも考えられる。もし「あり」を詞の補助活用と考えるなら、上の「ます」「ございます」も補助活用として考えなければならない、ということになる。
 「あり」の一用法を辞と見れば、「あり・つる文」「あり・し面影」「あら・ず」「と・ある・家」のような表現においては、具体的概念を表す詞を省略し、その陳述のみを「あり」で表現した、という説明がたいへんユニークで面白かった。辞は一般には独立しては用いられないが、詞辞の結合においてしばしば辞が零記号で表されるように、詞が零記号で表される場合もあるという考え方である。その時、辞は独立的に用いられる。詞が零記号になる場合は、以下のように、それが省略されても自明のこととして理解されるような場合である。
 雪が降っている。(だが)暖かい。  
風は吹かない。(けれども)花が散る。
 ここで注意すべきことは、「降っている」というような零記号の陳述を受けてこれを繰り返すとき「だが」という形で受けることであり、「だ」と零記号の陳述は同一のものであるということである。
 〈なお「が」「だから」「だのに」「だって」「で」「でも」「では」「ですから」「でしたら」等は独立的に詞が省略されて用いられる〉という説明も、なるほどと納得してしまった。繰り返しを避けるため、詞を省略して辞を独立的に使うという考え方は、著者ならではのユニークな発想ではないかと思う。以降、読み進めることが楽しくなってきた。  


Posted by cathyhua  at 11:34Comments(0)

2018年03月02日

詩にプロのイラスト

『詩とファンタジー』は、かまくら春秋社が発行している詩の雑誌です。

もともとはやなせたかしさんが責任編集をされていた『詩とメルヘン』(1973年創刊)が2003年に休刊となり、そのあと再びやなせたかしさん責任編集で2007年に創刊されたのが、この『詩とファンタジー』です。以前は季刊誌だったのですが、やなせたかしさんがお亡くなりになったこともあり、残念ながら、2015年からは年2回(4月と10月)の発行になってしまいました。



特集はプロの詩人がメインですが、全体の半分ぐらいは雑誌で募集しているアマチュアの詩にプロのイラストレターが絵をつけたもので、見開きで20編ぐらい掲載されます。

投稿には、雑誌の巻末についている「投稿券」が必要ですが、期間は指定されていないので、いつのものでも大丈夫です。

入選して掲載されると1編3000円の原稿料と掲載誌5冊がもらえます。

さらに、「詩」「イラストレーション」それぞれの部で、入選作の中から年間で大賞1点、優秀賞2点が選ばれます。



詩のほかに「ショートショートファンタジー」(投稿券必要)、「イラストレーション」(投稿券必要)、「ほんの三行詩」(メール応募も可)、「お便りのコーナー」でも投稿を募集しています。

詩のカラーページで採用されなかった場合でも「星屑ひろい」というコーナーで詩だけ掲載してもらえることがありますが、その場合も事前に封書で連絡がきます。

とても素敵な雑誌ですが、書店であまり置いてあるところがないのが残念です。

詩というと難しいイメージをもっている人も多いと思いますが、『詩とファンタジー』の詩はわかりやく、親しみやすい詩がほとんどです。

書店でみかけたときには、ぜひ中を開いてみてほしいです。  


Posted by cathyhua  at 11:25Comments(0)

2018年02月08日

人間ばかりがひしめ

閲覧数が急に上がった。
ロボットの仕業か?
べつに、これといった特別な記事も書いていない。
閲覧数が急に膨らんだ時間帯も、アップした時間とまるで無関係。
無機質に人のブログに大挙、押し寄せて来られても困る。
真のブログに訪問された方と台灣升學、ロボットとの見分けがつかなくて、翻弄される。
そもそも、ブログ村の注目人気記事は、AIが選んでいると確信している。
最近、送られてくる金融系DMには、「AIが選んだ特別な情報」などと堂々と銘打っている。
主客転倒か?
ある程度の作業はAIに任せるとよいが、生の人間の総合力や感性で、情報を料理すべきだ。味付けは人間。
下準備はAIに任せ、方向性を決めたり、創造性は人間で。

突然、理由もわからずらブログ閲覧数が急に増えると內痔症狀、PV(閲覧数)はロボットの仕業としても、IP(訪問者数)にも人間じゃない何かが入っているのではないかと、疑心暗鬼になる。
何でも信じられなくなったら老害。
だが、一番信じられないのは自分だから救いようがない。

見た目は人間と変わらないが、ロボット人間ばかりがひしめく未来都市に、生き延びた生身の人間がビクビクしながら暮らす映画をよく観る。
ブログにも、ロボット人間が混じり込んでいそうだ。
(現実に、著作権侵害の被害に遭ったことはある)

今日、書こうと思ったのはこんなことではなかったのに針灸、編集ページを開けて閲覧数を見たら、上述の感想を抱いてしまった。
これがもし今日のブログの前置きだったとしたら、読む側は、長すぎて疲れ果てて集中力が持たなくて、今から書く内容など誰も読まないだろう。
読んでくれるのは、タフなAIだけかも知れない。  


Posted by cathyhua  at 12:44Comments(0)

2018年02月08日

仲良く穏やかに

先ほどは、前書きだけで長文になってしまい、別記事にした。
この蝶ブログの気楽さ。
ひっそりした山の中、狸が話し相手では物足りなくなり、誰もいなくて寂しくなれば、ちょっとおめかしして、麓の街に降りていけばいい。
そこには、同じような暇を持て余した人々が、たむろしている。
いらっしゃい!と、暖房の効いた店内に案内してくれる。

そもそもわたしは、自分は嫌なヤツだということを他の誰よりも熟知している。
だから、自分のような嫌なものはシェアできない。
そんな嫌なヤツは、キライだから、友達にはなりたくない。
で、真逆の人と、接点だけで接する。
立体だったり、面や線、点だったりする。
あとの合わない部分は見ない。
見ると、拒絶反応を起こすぐらい、自分の嫌な面がむくむく出てくる。
その嫌な面は、自分でも嫌なのだが、自分の一部として実在しているので、切り離せない。
あえてわざわざカミングアウトする必要もないと思っている。
先にカミングアウトする人は、自分の嫌な面に耐えきれない、背負いきれない人だろう。
だから、吐き出して、身を少しでも軽くする。

カミングアウトという手段でなくても、高尚な手法もある。
昇華。芸術家なんかは、これか。
あるいは、スポーツや別のことに打ち込む。
はたまた、自分の他の秀でたものを見出し、それを磨く。
株の損益、プラマイ、トータル計算みたいな感じで損失を上回るよう努力する。

わたしが自分で嫌だと感じるのは、自分を基準にした物差し。
世の中には、いろんな人がいるのに、万人に応用できない、自分の尺度。
これが実にけしからん悪さをする。
失礼な感想、ジャッジを次々生み出す。
世の中の人、全てを受け入れようという度量の大きさは、皆無。

こころの豊かさを示すのは、モノではない。
仮に教養だとする。
このあたりで、またわたしの、けしからん悪さをするものが、顔を出す。
常識は、教養ともリンクしていると考える。
「なぜそんな風に思う?考える?知識はないのか?思考力はないのか?」と思ってしまう。
子供だったら、かえって癒される。
「何も知らないからそう感じるのか」、などと、かえって新鮮な驚きとなり、プラスの影響を及ぼす。
これが大の大人なら、、、
世代ギャップによるものなら、まあ仕方ない。
「世代ギャップにより、理解できない」ということが、理解できる
同じような世代なら、困る。
しかし、基準はあくまでも自分なので、わたしより上は山ほどいて、わたしより下も多々いる。
わたしは、自分より下の人は受け入れにくい。
自分より上の場合は、まあ、まし。
何事も同じぐらいのレベルであることが望ましいが、カンに障るジャンルがある。
これは、ヒステリックになる。
何故だかわからないが。
で、人は人!人それぞれ!と、無理やり認めようと頑張り、噛まずに丸呑みし、喉や胃の中で異物が暴れる。
消化不良が起きる。
しかし、喉元すぎればなんとやら、で、違う事態に事が移れば、どうってことはない。
これが、いつまでも追求したり尾を引いたりすると、破裂、爆発、破綻を来たす。
どうしてもこだわるジャンルか否か。
生死にかかわることでもない。
数値が少し違って根幹産業の信用問題を脅やかされるような大事件でもない。

で、そのことよりも、掃除して清潔な環境で暮らしたり、食べ物を大事にしたり、仲良く穏やかに暮らしたり、基本的なことが出来るほうが良いと考える。
頭脳や知識より知恵を重んじたほうが、暮らしやすい。
で、アタマに来るほどの、常識の捉え方、感覚の違いがあっても、その場が過ぎればまあよいか、と自分をなだめる。

昇華でもなく、スポーツ発散でもなく、自分との、妥協、折り合い。
はっきり文字、文章で表し、悪態をつきたいところだが、わたしはあまり、そういうのは好きではないので、おとなしく、ひっそり、一人で完結している。

嫌いな自分も含めて、自分だ。
清濁合わせ持つのは、よくあることだ。
切り離せない。  


Posted by cathyhua  at 12:19Comments(0)