2018年03月02日

辞が零記号の場合

次に、形容詞の連用形に結合した「あり」がある。
この冬は暖かり(く・あり)き
 この例においては、すでに零記号の陳述が加わった「暖かく」に「あり」が結合したもので、その形式は「学生で」に「あり」が結合したものと同じである。
*山田孝雄氏はこの「あり」を形容存在詞と命名し(「日本文法学概論」)、「日本文法論」で以下の説明を与えられた。
〈第一種の場合(存在概念を表す場合)と同じく事物に対してのある種の存在的意識をあらはすものなれど、第一種のものは事物そのものの存在をあらはし中一派位、第二種のもの(「暖かり」の類)は属性そのものが本体たる事物その者の上に存することをあらはすなり〉
 この「属性そのものが本体たる事物その者の上に存する」ということは、「この冬は暖かりき」という表現をそのまま理解したところからは出てこない。この文を「暖かさはこの冬にありき」とでもした場合にいえることだが、これは言語を離れた説明であり肯くことはできない。この例から、その説明をそのまま受け取った場合でも、二通りの理解が成立する。
一 「あり」を存在の概念の表現とし、「暖く」をその限定とし、「暖かり」を「この冬」の述語と考え、この冬はこれこれの有様で存在するという意味に解する。その時「暖かりき」は一つの詞と考えられる。
二 「あり」を陳述とし、「この冬は暖かい」という判断にさらに判断が重加したものと解する。口語の「この冬は暖かいです」の「です」、「暖こうございます」の「ございます」と同じように考えようとするのである。
 その何れが正しいかはしばらく措くとして空氣淨化器、問題は「あり」をどのように処理するかということである。一の「あり」を存在と考える立場からは、「暖かり」を一語とし、詞と考えてこれを形容動詞とする立場が生まれてくる。二の「あり」を陳述と考える立場からは、「あり」を「暖く」から切り離して、次のように理解する立場が生まれてくる。
 この冬は(主語) 暖く(述語) あり・き
 この理解に従えば、「ありき」は、この冬は暖い・よ(か・ね・らしい)における辞「よ」「か」「ね」「らしい」と全く同列に考えられることになり、さらに進んで、
 本を読みき
水は流れき
 における「き」と同じように考えられることになる。形容詞連用形に「き」が続く場合、その中間に介在する「あり」は、「暖い」で陳述が完成しているにもかかわらず、さらに「暖かいです」という場合の「です」に相当するものと考えられる。中間に「あり」を必要とすることは、被接続語の性質によるものであって、「き」が他の辞に続く場合にも起こる現象である。
 花咲き(に)き
 みぐしおろし給ひ(て)き
 のように「に」「て」にただちに続く場合と
 花咲くべかり(べく・あり)き
 みぐしおろし給はざり(ず・あり)き
 のように、その中間に「あり」を必要とする場合とがある脫毛優惠。この「あり」が存在概念を
表すものとは考えられない。
 形容詞連用形接続の「あり」に二通りの理解が成立するのと同様に、「ずーありーき」の「あり」についても、その取り扱い方は従来から問題であった。「暖かり」を一語と見て、「あり」をその語尾のように見る立場からは、「ざり」を一語と見、「あり」をその活用と見る。
 橋本進吉氏は、このような「あり」を補助用言といわれている。(「国語と国文学」)
氏の考えに従えば、補助用言「あり」の付いたものは一語となり、その活用は補助活用といわれる。氏は「ず」について、次のように説明している。
〈「ず」は(a)補助活用はないかというに、これと同じ意味の助動詞「ざり」があって、ラ変と同様に活用し、「ず」にない命令形をこれによって補っている(「思はざれ」「願はざれ」の類)。これはその起源において「ず」の連用形「ず」に動詞「あり」が付いて合体したもので、形容詞の連用形に「あり」が合してできた、形容詞の補助活用と趣をおなじうする〉(前掲論文)
 この論旨においては、補助用言が詞に属するか、辞に属するか、明らかにされていないが、形容動詞の語尾を形容詞の補助活用とするところは詞とも見られ、「ず」の補助活用として「ざり」を助動詞とするところは辞とも考えられている。要するに、「ざりき」のような場合は「ざりーき」とし、「べからず」のような場合には「べからーず」として取り扱い、すべて「あり」は上の語に接続させて考えられているのである。「あり」の一用法を辞と認める私の立場においては「ずーありーき」「べくーあらーず」というようにすべて辞の結合と考える。取り扱い方によっては、「ありき」「あらず」を一体と見て、それぞれ「き」「ず」の接続による変容とすることもできる。あたかも、敬語的陳述が、
 咲く・       (は記号の陳述)
咲き・ます   「ます」は零記号の変容
美しう・ございます 「ございます」は零記号の変容
 のように、零記号より「ます」「ございます」と変容する場合と同じように考えられる。もし「あり」を詞の補助活用と考えるならば、上の「ございます」も補助活用として考えなければならない。
 「あり」の一用法を辞と見る考え方は、次のような事実にも適用できる。
 あり・つる文
 あり・し面影
あら・ず
と・ある・家
 上の場合は、具体的概念を表す詞を省略して、その陳述のみを「あり」で表現したのである。例えば、問・汝は行くか→答・あらず のように「行く」という詞を省略し、否定的陳述「ず」の代わりに「あらず」といったのと同じである。上の諸例は、いわば辞の独立的用法というべきものである。辞は一般には独立して用いられないが、詞辞の結合において、しばしば辞が零記号で表されるように、ある場合には詞が零記号で表されることを認めてよいと思う。
 火事・か・・・・・・・→火事? 火事・ 辞が零記号の場合
天気・だが・・・・・・→だが □・だが 詞が零記号の場合
 詞の零記号になる場合は、それが省略されても自明のこととして理解されるような場合である。
 雪が降っている。だが暖かい。
 風は吹かない。けれども花が散る。
 「が」「だから」「だのに」「だって」「で」「でも」「では」「ですから」「でしたら」等は独立的に詞が省略されて用いられる。ここで注意すべきことは「降っている」というような零記号の陳述を受けてこれを繰り返すとき、「だが」という形で受けることであり、これによって見れば、「だ」と零記号の陳述は同一のものであることが知られる。否定的陳述が「あらず」となる場合も、「あら」は同様に零記号の陳述と同価値と見ることができるのである。

【感想】
 ここでは、形容詞の連用形に結合した「あり」について説明されている。「この冬は暖かりき」という例文をとりあげ、著者は「暖かりき」を「暖かく・あり・き」のように分析し、「あり」「き」はいずれも陳述を表す辞であると考える立場だが、一方、「あり」を存在を表す詞と考え、「暖かり」を一語(形容動詞)とする立場もあることを紹介している。どちらが正しいか、著者は結論を出していないが、さらに進んで、(著者の考えでは)動詞連用形に結合する「き」(本を読みき、水は流れき)と同様であり、また「花咲くべかりき」(べく・あり・き)「みぐしおろし給はざりき」(ず・あり・き)のように、中間に「あり」を必要とする場合があることを紹介している。この場合の「あり」が存在概念を表すものとは考えられない、という説明には、なるほどと感じる説得力があった。
 形容詞連用形接続の「あり」に二通りの理解が成立するのと同様に「ず・あり・き」の「あり」についても、従来から問題があったということである。橋本進吉氏は、そのような「あり」を補助用言といい、〈「ず」の連用形「ず」に動詞「あり」が合してできた、形容詞の補助活用と趣を同じうする〉と説明しているが、その補助用言が詞なのか、辞なのかは明らかにしていない。要するに、「ざりき」のような場合には「ざりーき」とし、「べからず」のような場合には「べからーず」として取り扱い、すべて「あり」を上の語に接続させて考えられている、ということである。これに対して著者は、「あり」を辞として認め、「ずーありーき」「べくーあらーず」というように、すべて辞の結合と考える。取り扱い方によっては「ありき」「あらず」を一体と見て、それぞれ「き」「ず」の接続による変容ともすることができる、とも述べている。それは、(敬語的陳述において)「咲く・」が「咲き・ます」「美しう・ございます」のように零記号のが「ます」「ございます」に変容する場合と同じようにも考えられる。もし「あり」を詞の補助活用と考えるなら、上の「ます」「ございます」も補助活用として考えなければならない、ということになる。
 「あり」の一用法を辞と見れば、「あり・つる文」「あり・し面影」「あら・ず」「と・ある・家」のような表現においては、具体的概念を表す詞を省略し、その陳述のみを「あり」で表現した、という説明がたいへんユニークで面白かった。辞は一般には独立しては用いられないが、詞辞の結合においてしばしば辞が零記号で表されるように、詞が零記号で表される場合もあるという考え方である。その時、辞は独立的に用いられる。詞が零記号になる場合は、以下のように、それが省略されても自明のこととして理解されるような場合である。
 雪が降っている。(だが)暖かい。  
風は吹かない。(けれども)花が散る。
 ここで注意すべきことは、「降っている」というような零記号の陳述を受けてこれを繰り返すとき「だが」という形で受けることであり、「だ」と零記号の陳述は同一のものであるということである。
 〈なお「が」「だから」「だのに」「だって」「で」「でも」「では」「ですから」「でしたら」等は独立的に詞が省略されて用いられる〉という説明も、なるほどと納得してしまった。繰り返しを避けるため、詞を省略して辞を独立的に使うという考え方は、著者ならではのユニークな発想ではないかと思う。以降、読み進めることが楽しくなってきた。  


Posted by cathyhua  at 11:34Comments(0)

2018年03月02日

詩にプロのイラスト

『詩とファンタジー』は、かまくら春秋社が発行している詩の雑誌です。

もともとはやなせたかしさんが責任編集をされていた『詩とメルヘン』(1973年創刊)が2003年に休刊となり、そのあと再びやなせたかしさん責任編集で2007年に創刊されたのが、この『詩とファンタジー』です。以前は季刊誌だったのですが、やなせたかしさんがお亡くなりになったこともあり、残念ながら、2015年からは年2回(4月と10月)の発行になってしまいました。



特集はプロの詩人がメインですが、全体の半分ぐらいは雑誌で募集しているアマチュアの詩にプロのイラストレターが絵をつけたもので、見開きで20編ぐらい掲載されます。

投稿には、雑誌の巻末についている「投稿券」が必要ですが、期間は指定されていないので、いつのものでも大丈夫です。

入選して掲載されると1編3000円の原稿料と掲載誌5冊がもらえます。

さらに、「詩」「イラストレーション」それぞれの部で、入選作の中から年間で大賞1点、優秀賞2点が選ばれます。



詩のほかに「ショートショートファンタジー」(投稿券必要)、「イラストレーション」(投稿券必要)、「ほんの三行詩」(メール応募も可)、「お便りのコーナー」でも投稿を募集しています。

詩のカラーページで採用されなかった場合でも「星屑ひろい」というコーナーで詩だけ掲載してもらえることがありますが、その場合も事前に封書で連絡がきます。

とても素敵な雑誌ですが、書店であまり置いてあるところがないのが残念です。

詩というと難しいイメージをもっている人も多いと思いますが、『詩とファンタジー』の詩はわかりやく、親しみやすい詩がほとんどです。

書店でみかけたときには、ぜひ中を開いてみてほしいです。  


Posted by cathyhua  at 11:25Comments(0)

2018年02月08日

人間ばかりがひしめ

閲覧数が急に上がった。
ロボットの仕業か?
べつに、これといった特別な記事も書いていない。
閲覧数が急に膨らんだ時間帯も、アップした時間とまるで無関係。
無機質に人のブログに大挙、押し寄せて来られても困る。
真のブログに訪問された方と台灣升學、ロボットとの見分けがつかなくて、翻弄される。
そもそも、ブログ村の注目人気記事は、AIが選んでいると確信している。
最近、送られてくる金融系DMには、「AIが選んだ特別な情報」などと堂々と銘打っている。
主客転倒か?
ある程度の作業はAIに任せるとよいが、生の人間の総合力や感性で、情報を料理すべきだ。味付けは人間。
下準備はAIに任せ、方向性を決めたり、創造性は人間で。

突然、理由もわからずらブログ閲覧数が急に増えると內痔症狀、PV(閲覧数)はロボットの仕業としても、IP(訪問者数)にも人間じゃない何かが入っているのではないかと、疑心暗鬼になる。
何でも信じられなくなったら老害。
だが、一番信じられないのは自分だから救いようがない。

見た目は人間と変わらないが、ロボット人間ばかりがひしめく未来都市に、生き延びた生身の人間がビクビクしながら暮らす映画をよく観る。
ブログにも、ロボット人間が混じり込んでいそうだ。
(現実に、著作権侵害の被害に遭ったことはある)

今日、書こうと思ったのはこんなことではなかったのに針灸、編集ページを開けて閲覧数を見たら、上述の感想を抱いてしまった。
これがもし今日のブログの前置きだったとしたら、読む側は、長すぎて疲れ果てて集中力が持たなくて、今から書く内容など誰も読まないだろう。
読んでくれるのは、タフなAIだけかも知れない。  


Posted by cathyhua  at 12:44Comments(0)

2018年02月08日

仲良く穏やかに

先ほどは、前書きだけで長文になってしまい、別記事にした。
この蝶ブログの気楽さ。
ひっそりした山の中、狸が話し相手では物足りなくなり、誰もいなくて寂しくなれば、ちょっとおめかしして、麓の街に降りていけばいい。
そこには、同じような暇を持て余した人々が、たむろしている。
いらっしゃい!と、暖房の効いた店内に案内してくれる。

そもそもわたしは、自分は嫌なヤツだということを他の誰よりも熟知している。
だから、自分のような嫌なものはシェアできない。
そんな嫌なヤツは、キライだから、友達にはなりたくない。
で、真逆の人と、接点だけで接する。
立体だったり、面や線、点だったりする。
あとの合わない部分は見ない。
見ると、拒絶反応を起こすぐらい、自分の嫌な面がむくむく出てくる。
その嫌な面は、自分でも嫌なのだが、自分の一部として実在しているので、切り離せない。
あえてわざわざカミングアウトする必要もないと思っている。
先にカミングアウトする人は、自分の嫌な面に耐えきれない、背負いきれない人だろう。
だから、吐き出して、身を少しでも軽くする。

カミングアウトという手段でなくても、高尚な手法もある。
昇華。芸術家なんかは、これか。
あるいは、スポーツや別のことに打ち込む。
はたまた、自分の他の秀でたものを見出し、それを磨く。
株の損益、プラマイ、トータル計算みたいな感じで損失を上回るよう努力する。

わたしが自分で嫌だと感じるのは、自分を基準にした物差し。
世の中には、いろんな人がいるのに、万人に応用できない、自分の尺度。
これが実にけしからん悪さをする。
失礼な感想、ジャッジを次々生み出す。
世の中の人、全てを受け入れようという度量の大きさは、皆無。

こころの豊かさを示すのは、モノではない。
仮に教養だとする。
このあたりで、またわたしの、けしからん悪さをするものが、顔を出す。
常識は、教養ともリンクしていると考える。
「なぜそんな風に思う?考える?知識はないのか?思考力はないのか?」と思ってしまう。
子供だったら、かえって癒される。
「何も知らないからそう感じるのか」、などと、かえって新鮮な驚きとなり、プラスの影響を及ぼす。
これが大の大人なら、、、
世代ギャップによるものなら、まあ仕方ない。
「世代ギャップにより、理解できない」ということが、理解できる
同じような世代なら、困る。
しかし、基準はあくまでも自分なので、わたしより上は山ほどいて、わたしより下も多々いる。
わたしは、自分より下の人は受け入れにくい。
自分より上の場合は、まあ、まし。
何事も同じぐらいのレベルであることが望ましいが、カンに障るジャンルがある。
これは、ヒステリックになる。
何故だかわからないが。
で、人は人!人それぞれ!と、無理やり認めようと頑張り、噛まずに丸呑みし、喉や胃の中で異物が暴れる。
消化不良が起きる。
しかし、喉元すぎればなんとやら、で、違う事態に事が移れば、どうってことはない。
これが、いつまでも追求したり尾を引いたりすると、破裂、爆発、破綻を来たす。
どうしてもこだわるジャンルか否か。
生死にかかわることでもない。
数値が少し違って根幹産業の信用問題を脅やかされるような大事件でもない。

で、そのことよりも、掃除して清潔な環境で暮らしたり、食べ物を大事にしたり、仲良く穏やかに暮らしたり、基本的なことが出来るほうが良いと考える。
頭脳や知識より知恵を重んじたほうが、暮らしやすい。
で、アタマに来るほどの、常識の捉え方、感覚の違いがあっても、その場が過ぎればまあよいか、と自分をなだめる。

昇華でもなく、スポーツ発散でもなく、自分との、妥協、折り合い。
はっきり文字、文章で表し、悪態をつきたいところだが、わたしはあまり、そういうのは好きではないので、おとなしく、ひっそり、一人で完結している。

嫌いな自分も含めて、自分だ。
清濁合わせ持つのは、よくあることだ。
切り離せない。  


Posted by cathyhua  at 12:19Comments(0)

2018年01月17日

何を言ってるのか

今朝10時過ぎ。外に出ると、くぐもった大きな声。いつもの広報スピーカーからのお知らせ(「行方不明者」とか「光化学スモッグ」とか)とは違って、運動会のアナウンスの支付寶香港ような拡散された音なので、歌なのか言葉なのかもよく分からない。

なんだろう、と辺りを見回しながら歩いていると、ばらばらばらとヘリコプターが。ゆっくりゆっくりと低空で飛んでいて、時々ホバリングしてみたり。と、なんとそこから音声が痔瘡膏。「…と言ったら、それは詐欺です」「の場合は、電話番号○○○の…」。どうやら振り込め詐欺の注意喚起のようだけど、プロペラ音がうるさくて、何を言ってるのか聞き取れない。電話番号なんて、まったく聞こえない。何を伝えたいのか、さっぱり分からない。

家に帰ってから機体番号を調べたら、やはり神奈川県警察航支付寶認證空隊のものでした。ヘリの広報活動なんてよくあることなのかしらん、と調べたけれど、SNSにも見当たらず。うーむ。いったいどういう効果を狙ってのことなのか。かなり、謎。  


Posted by cathyhua  at 18:32Comments(0)

2018年01月17日

空いているときに

作業だけど、ちまちましたことで、力仕事ではない。

ひたすらデータを取って、記録していく。

時間制限があって、データを取る作業を自分一人で占有できない。だから、空いているときに集中してやる。

昼飯も食わず。昼休みは、他の人が休んでいるから当然空いている。

午後になると、集中しすぎて、立ちくらみが出た。立ち上がったとたんに、目の前が真っ暗になった。

ストレスで、一番嫌なのが、時間に追われること。時間的に追い込まれると、パニックを起こして、過呼吸になる。

今日は、期限も難易度もプレッシャーも高レベルで、何をどうしたら良いのか分からなくなった。

結局、時間内に片付かず、追加の作業が増えて、残業。

月曜日から、フル稼働は、キツイ。。。。  


Posted by cathyhua  at 18:11Comments(0)

2017年12月26日

人と人の間と書く

寒椿の葉の上にスケルトンとなって葉っぱが落ちていました。これを見ているだけで色々な想いが浮かんできます。

 スケルトンというとがい骨を想い出します。それは人体のがい骨です。がい骨というと学校の理科室をイメージしたり外国の怪談が浮かんできます。当時小学校の雙眼皮手術理科室にはよくその模型がありました。今、想えば36年間もよく小学校の教師をやっていたなと想います。その間、社会と家庭以外の主任は殆どやって来ました。算数、国語、理科、音楽、図工、書写、道徳、体育、特殊教育、外国籍、情報教育主任とこれだけの事をやらせて頂き、良い経験でした。

 小学校の良さは総合的に教科を扱うことです。そして、子どもをそのことを通して総合的に看取ることです。広く浅くというか、まあそんなことですが、その本質をつかむ事が大切です。物事の本質こそ、格なのです。だから、人格であり、格調、風格、品格につながって行くのです。最近はこのような言葉があまり言われないのが残念です。人間が薄っぺらくなったのかもしれません。表面的なことにこだわり過ぎている風潮も危惧し手います。

 物事には本質があるのです。そこから波状してくることには間違いは少ないのです。本質を忘れた時から間違いが始まるのです。いわゆるボタンの掛け違いでしょうか大便 出血。その掛け違いにいち早く気付が良いのですが、自分に不利益が降りかかって来て気づく人があまりにも多いのは残念です。いわゆる天に唾することです。ついつい奢りが出てしまった等の反省点です。恋は盲目とい言葉がありますが、奢りは盲目です。いつでも謙虚でなければいけません。いつでも人は人間でありどこかとつながっているのです。だから、人と人の間と書くのです。昔の言葉はこうやって考えて来ると含蓄があります。

 「儲ける」は信ずるものが集まるイメージですし、「稼ぐ」という言葉には、「家」に「禾」、すなわち、愛する家族にかてをもたらす光景をイメージできます。「親」は高い木の通渠佬上に立ちよく見ることです。「忙しい」も、心を亡くすとかくからおもしろいですね。

 今回、こんな物を自然の中で見つけました。葉っぱがスケルトンになっていたのです。肉体が滅びるとまず、こうなってしまうのかと想いました。自然は無情といえば無情です。なるべくしてなり、起こるべくして起こっているのですから。

 そこには、在りし日の葉っぱの面影はありません。自然界とはまさに新陳代謝が常に行われているこのような諸行無常の世界です。生老病死が耐えず行われ、その中でも新し命に引き継がれて行きます。

 私は趣味の一つとして園芸や野菜作りもしていますが、野菜を育てていると一年と言う短いサイクルで次々と新陳代謝が行われ野菜が生長し、変化していきます。このサイクルの中に何ともいえない喜びを感じています。

 青々として白菜の芽を見ているだけで幸せを感じます。ネギの色の鮮やかさに感心もします。ネギの色は日本語で浅黄色ともいい、その緑の色は単に緑とだけで言い表せません。やはりネギの色は緑なんですが、浅黄色が一番似合います。まさにアナログの世界です。また、白ネギの白さもその中に生命が宿っていると想うとその白さは何と表現したらいいのでしょう。私たちは毎日その命をいただいているのです。思わず掌を合わせたくもなるでしょう。食事の時の合掌です。ネギの意識してそうなっているのでなく、ただ、命をつないでいるだけなのです。諸々の物をよく見ていると、自然界は実にうまくできているなと感心することしきりです。自然界にはあるべくしてあるものしかなく、いわゆる余分な贅肉が無いのです。だから自然なのです。懐もとてつもなく広いのです。すべてを飲み込んでしまいます。だから、今、自然は畏敬の対象となるのです。

 昔、美しき天然という曲がよく流れていました。それも、どこか、人間の自然への回避があったからでしょう。私の中ではサーカスのテーマ曲であり、私がエレックトーンで最初の頃引いたハ短調の曲でもあります。自然を尊重する態度は共感や協調につながって来ます。私たちも、自然をよく見て学習し、自然と協調することをもっと学んで欲しいと想います。文明の発達は自然への畏敬の念を助長するものであって、自然の破壊につながってはいけません。今の人間に欠けているのが、この感謝、思いやり、畏敬の念です。魂の浄化という面にもっと目を向けて行かないと行けないです。

 私たちは事実を多方面から考察する術と持っています。これを見ても何も想わない人もいるでしょう。ここから、自然の儚さに想いをはせる人もいるでしょう。時の流れの一瞬を感じ取る人もいると想います。想いは無限です。生きている限り私たちはこの想いに従って生きています。

 私はこれを見て自然は日々流転していて、変化こそ、この世の真理だと想います。同じことは何時までも続きませんし、時間の中で変化していきます。どんなに暗い闇夜もいつかは暁の空に変わっていきます。何事も、固定的に考えずに自然の声に耳を傾けるようにしていると自然がささやいて私たちに次の生き方を教えてくれます。  


Posted by cathyhua  at 18:43Comments(0)

2017年12月26日

日帰り温泉に

「海苔ハウス」って何なのだろう。

海苔店のことなのか。

それとも海苔で造った家なのか。

海苔は水に溶けるので、さすがに後者はありえないだろう。

実は私も人のことは言えない。

会議中に出席者が話した「数パーセント」という言葉を「スーパー銭湯」と勘違いしたのである。

不謹慎とはいっても、会議中にほかのことを考えるのは、私だけではないと思う。

私もその日は銭湯か、スーパー銭湯か、日帰り温泉に寄って帰りたいと思っていた。

だから「数パーセント」が「スーパー銭湯」に聞こえたに違いない。

「調査結果を分析したところ、Aと答えた人が55パーセント、Bは35パーセント、Cは7パーセント、その他は『スーパー銭湯』であった」。

この会議の議事録作成者が私でなくて、本当に良かったと痛感する。

まあ、たまにはこんな議事録があっても楽しいのかもしれないけど。  


Posted by cathyhua  at 18:41Comments(0)

2017年11月13日

巻き込まれる

犬同士の絆って人が想像するより強いのかもしれない
わたしの実家には二匹の犬がいる。
茶色いの(二歳三か月)と白いの(七か月)とで、白いのが我が家にやって来たのは今年の初夏だった。

かれこれ半年近く一緒に過ごしている二匹なのだが、とてもじゃないが「抜群の相性」と表現することができないでいた。
寝床で二匹寄り添って寝ることだけ通渠公司を「抜群の相性」と呼ぶならば…だけれども。
おっとりした甘えん坊な茶色いのと、年相応にやんちゃでいたずら好きな白いのの組み合わせなので、事あるごとにちょっかいを出しては追いかけっこをしているのである。

「トムとジェリー状態」と言えば微笑ましい風景を想像する方がいるのだろうが、実際はかなりスリリングな追いかけっこである。
ソファに駆け上がったかと思ったら床で寝っ転が通渠っている家族の腹へ飛び移るので、巻き込まれる人間はたまったものではない。
勢いよくみぞおちや股間(!)に飛び移られたときは、ガチで悶絶ものだ σ(^◇^;)


そんな関係性の判りにくい二匹なんだけれども、わたしは二匹の絆を実感する出来事に何度か遭遇している。

たとえばある日、白いのをトリミングに連れて行くことになった。
キャリバッグに入れて準備万端、外に連れ出そうとしたときに事件は起きた。

茶色いのがキャリバッグの周りで騒ぐのである。
キャリバッグを開けようとカリカリひっかき通渠佬、切ないうなり声を上げてはキャリバッグの持ち出しを阻止する。
「(白いのを)どこにも連れて行かないで!」と、全身全霊で必死の懇願をしているかのようだった。
結局は茶色いのをどうにか引き剥がし、白いのをトリミングに連れて行ったのだが、この出来事によって、茶色いのが白いのを家族の一員として認めていたことが判った。

それ以来、茶色い犬の目の前で白いのをキャリバッグに入れることは控えている。
白いのをトリミングに連れて行くときは、事前に茶色いのを散歩に連れ出す等、涙ぐましい努力をしているのだ (笑)

もうひとつの出来事はつい昨日のこと。
ちょうど実家に帰っていたわたしが、茶色いのを散歩に連れ出したのだ。
そのとき家には誰も人がいなかったため、必然的に白いのが一匹で留守番をすることになる。
30分ほど茶色いのとお散歩を楽しんでから実家に戻った。

ドアの前に立った瞬間、犬の遠吠えがドアの外まで響いてきた。
茶色いのとわたしが帰宅したのを察知した白いのが、全力で騒いでいるのだ。
今まで聴いたことのないような声で白いのが吠えている。
おそらく人語に訳すと「(茶色いの)早く帰ってきて~~!」と叫んでいるのだろう。
※わたしゃ犬のリアル遠吠えをはじめて聴きましたよ σ(^◇^;)

その勢いで完全に気圧されてしまった茶色いのが、オシッコをまき散らしながら家中を駆け回る。
白いのは脱糞した上に食糞し、ウンチを踏み荒らして走り回っている。
ひとり呆然と立ち尽くすわたし σ(^◇^;)

部屋を掃除し、二匹が落ち着くまで30分ほどを要したのだが、しばらくして彼らは恒例の追いかけっこを再開した。
たぶん彼らは、人間が想像する以上に強い絆で結ばれているんだろうと思う。

  


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2017年11月13日

きっと辛かった


 好きなことは金を払ってするもの P-53 

 前略

 私の亡くなった父は大正13年生まれだが、家が貧しかったため、高等小学校を卒業してすぐに働きに出た。当時の仕事がどんなものだったか聞き忘れたが、好きなことなんか仕事にできなかったのは間違いない。父は働きながら夜間中学を出たが、20歳の時に徴兵で軍隊に入った。戦後、いろいろな職を転々とし、30歳くらいのときに大阪市の水道局の臨時職員になった。その頃、結婚して私が生まれた。

 父はやがて正職員になれたが、配置されたのは漏水課というところだ。どういう仕事かといえば、一日中、大阪市内を歩き回り、破れた水道管を直すというものだ。昔は大阪市内の道路もほとんどは舗装されていなくて、晴れた日に道が濡れていると、地中の水道管が破れているという印だった。そういう場所を見つけては、道路をツルハシとシャベルで掘り返して、水道管を修理するのだ。父は定年まで、夏の炎天下、ヒュの木枯らしの中で、そういう仕事をして、私たちを養ってくれた。
 
 こんな仕事がふつうに考えて楽しいとは思えない。きっと辛かったと思う。けれど父は私たち家族の前では、一言も仕事の愚痴をこぼさなかった。別に父が格別に立派とも思わない。当時は父と同じように、しんどい仕事を黙々とやり続けた男たちがたくさんいたからだ。  


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